前置き1
おはようございます。くまーです。
もうすぐ2025年も終わりますね。
私は車酔いがひどくて、車内でスマホが見られないので、車での長距離移動は良いデジタルデトックスになります。
スマホを触らない時間は、短く細かいドーパミン中毒から解放され、ゆっくり、深く思考ができます。
前置き2
年の瀬のそんな時間を使って、考えていたことがあります。それは作品の良し悪しと、受け手の感受性についてです。
作品をどう評価するかは受け手の感受性によるもので、個人の自由です。小学生の作文を読んで、「この表現は個性があって良い」と捉えるか、「よく分からん表現だな」と捉えるかは読み手の感受性によって異なります。
もっと言えば、適当に作った俳句に何かと解釈して「面白い」という人もいれば、松尾芭蕉の俳句を見ても「面白くない」という人もいるのです。
極論、何を見ても「面白い」と感じれる人から、何を見ても「面白くない」と感じる人もいるということです。
では、作品の良し悪しはどうやって決まるのでしょうか。どんな作品でも受け手次第なら、普遍的な評価は付けようがないのでしょうか。
いや、多くの人が「良い」、「面白い」と感じることが普遍的な「良い」の基準になるのではないでしょうか。という浅い結論を出したところで私の興味は既に別のところに移っていました。
「適当に作った俳句を解釈するのって楽しそう。」
例えば50音を順に並べただけの俳句があったとする。
あいうえお
かきくけこさし
すせそたち
明らかにふざけた俳句、いや季語がないので俳句ですらないが、声に出してみると面白い。
七、五の末尾が押韻されているのだ。
当たり前だが、「あいうえお」と「かきくけこ」の韻も同じである。
意味は無くとも韻が面白いということは、母音を固定して意味のある俳句を作れば大変良い俳句になるのではないだろうか。
そこでいくつか作ってみた。



母音固定俳句選手権に応募する気持ちで作っていたが、なかなか難しかった。
母音が当てはまる良さげな語彙から、意味の通りそうな周りの語彙を見繕う作業は楽しいが、美しい景色や心情を季語を交えて描写するには至らなかった。
「待ち暮れの秋」や「末の旅」など無い言葉を作り出してしまったが、きっと受け手の感受性で解釈してもらえることを祈っている。
終わりに
さて、今年もたくさんの方にお世話になりました。来年もまた、よろしくお願いします。では、良いお年をお迎えください。



